A.世界のリアルポリティックス(現実政治)においては、たしかに大国が経済力にまかせて軍備を増強し、核兵器をもち「抑止論」を言い立てながら、互いに威嚇し合う「力」の政治が、残念ながらまかり通っています。かつてクラウゼヴィッツという軍人が『戦争論』という著作において「戦争とは政治の道具に他ならない」と言った状況が、現代世界にもいまだに続いているのかもしれません。この「最後は力で解決する」という立場は、しかしながら、神の御摂理を視野に入れない人間中心の判断です。それは、平和の恵みを神に乞い願う聖書の立場とは根本的に異なっています。
聖書の言う「平和」は「シャローム」という言葉ですが、これはもともと「建物を完成する」という意味です。基礎から造り始めて、柱を立て、屋根を張り、壁を塗って完成させていく、その円満な成就状態に向かうプロセスが「シャローム」です。聖書の宗教は、歴史的な宗教ですから、常に終末という目標を見すえ、そこに向かって一歩一歩進んでいく特徴があります。その際、シャロームは、まず神との平和であり、神の恵みとしての救いです。それに対して、神の恵みを受け入れないかたくなな心、すなわち罪こそが平和の敵です。
それに対して、西洋古代世界の「平和」は「パックス」(ラテン語)ですが、これは「闘争の不在、中断、休戦」を意味します。人間社会においては、騒乱や戦争状態が基本だというのが基本的前提であり、古代ギリシアにおいても、オリンピックというお祭の間は争いをやめましょうとなりました。この平和が現実的だといえばそうかもしれません。これに対して、聖書の平和は、やはり信仰において、人間の力によるのではなく、それを超えた神の救いの計画からこの世の状況を見ています。神は、今の状態よりももっと良い方向に世界を導いてくださるという信仰に基づく希望の態度です。
しかしながら、キリスト教の語る平和が非現実的であるかといえば、そうでもありません。1962年に米国と当時のソ連の間で核戦争が始まりそうになったときに、米国ケネディー大統領とソ連のフルシチョフ首相の間をとりもち、紛争を終結に導いたのは、当時のカトリック教会の教皇ヨハネ二十三世でした。
教皇ヨハネ二十三世は、東西冷戦下、回勅『パーチェム・イン・テリス』(1963年)において次のように述べました。
「すべての人が銘記しなければならないのは、軍事力増強の停止、軍備の縮減、ましてその廃止は、人々の精神にまで及ぶ完全な軍備廃止がないならば、実現できないということである。人々の心から、戦争の恐怖と不安のうちに戦争を待つ気持ちとを消し去るよう、一致協力して、誠実に努力しなければならない。それは、軍備の均衡が平和を招来するという定理を、人々の間の真の平和は相互の信頼の中にしか確立することができないという原則に替えることによってのみ、可能となりうる。わたしの考えでは、これは到達可能な目標である」。
『パーチェム・イン・テリス』から半世紀以上が過ぎた今、世界はいまだに軍備の均衡から、相互の信頼による真の平和へシフトできていません。しかしもはや私たちは、抑止力を頼りとする綱渡りのような均衡状態の限界に来ているのではないでしょうか。
最新兵器の購入や基地の設備維持のため、我が国の防衛予算は無制限に増大しています。武器取引は、アフリカや中東で行われる局地戦や内紛と表裏一体です。なぜなら商品として継続的に開発、製造され、売買されるためには、それらはまず消費されなければならないからです。さらに、兵器開発、戦争は、環境破壊の最大の原因でもあります。
実際、昨年訪日した現教皇フランシスコは、特に核兵器の倫理性について、強くはっきり語られました。
「軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。…武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは途方もないテロ行為です」(長崎・爆心地公園)。
「確信をもって、あらためて申し上げます。戦争のために原子力を使用することは、現代において、犯罪以外の何ものでもありません。人類とその尊厳に反するだけでなく、私たちの共通の家の未来におけるあらゆる可能性に反します」(広島・平和公園)。
この教皇の踏み込んだメッセージに呼応して、日本カトリック司教協議会は、髙見三明大司教名で、首相宛てに「核兵器禁止条約」への署名・批准を求める要請もしました。
また米国カトリック司教会議もすばやく反応して、教皇フランシスコの広島・長崎での発言を支持し、「米国は非核化・軍縮の先頭に立つべきである」と政府に働きかけていくと声明しました。米国やNATOとの関係において核抑止政策に甘んじてきたカナダとドイツの司教団も、すでに昨年、バチカンの核兵器廃止方針を支持する声明を出しています。このような平和への宗教に基づく声は、現実世界にも大きな影響を与えていると言えるでしょう。
日本のカトリック教会は、一九八一年に訪日した当時の教皇ヨハネ・パウロ二世が「戦争は人間のしわざです。戦争は死です。過去をふり返ることは、将来に対する責任を負うことです。広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対して、責任を取ることです」(『広島・平和アピール』)などの言葉を語られて以後、被爆国、アジアへの侵略と戦争を行なった当事国の教会として、過去への反省と将来の平和の誓いの言葉を常に語っています。
また2017年の元旦には、教皇フランシスコが「世界平和の日」メッセージとして次のような「積極的な非暴力」を世界に呼びかけました。
「争いにまみれた状況の中で『(他者の)尊厳への深い敬意』を抱き、積極的な非暴力に基づく生き方を実践しましょう。…地域的、日常的な局面から国際的な秩序に至るまで、非暴力がわたしたちの決断、わたしたちの人間関係、わたしたちの活動、そしてあらゆる種類の政治の特徴となりますように」(1項)
「今、イエスの真の弟子であることは、非暴力というイエスの提案を受け入れることでもあります」(3項)
「わたしたちの家庭には、爆弾や銃は必要ありません。平和のために破壊すべきではありません。ただ一緒にいて、互いに愛し合ってください。……そうすれば世界のあらゆる悪に打ちかつことができます」(4項)。
この言葉は、日本国憲法第九条と、これまでの日本のカトリック教会の立場と重なります。こうした視点から日本のカトリック教会は、憲法9条の危機、沖縄の民意、集団的自衛権行使容認などあえて具体的な時事的問題にも言及しています。
軍事基地周辺の住民が常に強いられている強度の緊張も見過ごすことはできません。有事の際にまず第一の攻撃目標となるのはレーダー基地やミサイル基地であり、誤爆による民間人の犠牲が必ずと言っていいほど出るからです。平時においても電波障害や水質汚染などの環境破壊、飛行訓練による騒音、墜落、器物落下事故など、さまざまな不安、人権侵害が指摘されています。とりわけ日本国内では、国土面積のわずか0.6%に過ぎない沖縄に、全国の7割の駐日米軍基地が集中し、上記のような日常生活の不安に加え、兵士による傷害事件、性暴力事件が多発していることを無視することはできません。
こうしたさまざまな人権侵害を、ある地域に集中的に押し付けることで得られる「平和」は危うく、脆く、差別的でさえあります。無軌道な開発の結果としての環境破壊によって、人類存亡の危機を迎えている今日こそ、平和のための真の意味での「リアリズム」とはなんなのかが、問われなければならないでしょう。
日本カトリック正義と平和協議会は、憲法9条に基づき、非武装による平和の実現を求め、一歩ずつ歩みを進めるべきと考え、ピース9グループを身近な人たちを作ることを呼びかけています。
『なぜ教会は社会問題に関わるのかQ and A』👉 Q-19, Q-23
参考文献
教皇ヨハネ二十三世 回勅『パーチェム・イン・テリス-地上の平和』(カトリック中央協議会2013.7)
教皇ヨハネ・パウロ二世 広島『平和アピール』
教皇フランシスコ 2017年「世界平和の日」教皇メッセージ(2017.1.1)
第23回日韓カトリック司教交流会 平和声明「北東アジアの平和を願って」
前田哲男「「東アジア安全保障のなかに置かれた萩」―イージス・アショアは何をもたらすか?―(JPブックレットvol.9,2020.4.1,所収)
松浦悟郎『キリストと同じ夢を見る これからの教会共同体』(ピース9の会 2020.4)