平和への決意

―戦後50年にあたって―

 

信徒、司祭、修道者の皆さんへ

 

わたしたち日本カトリック司教団は、第2次世界大戦が終結してから50年たった今、それまでの歴史を振り返り、日本がかかわったさまざまな戦争において尊いいのちを落とされた数多くの人々に思いをいたし、謹んで哀悼の意を表します。そしてここに、わたしたちは日本の教会のすべてのかたがたとともに、あらためて過去の歩みを反省し、キリストの光のもとに戦争の罪深さの認識を深めて、明日の平和の実現に向けて全力をつくす決意を新たにしたいと思います。

 

  1. いのちの尊さと戦争

(1)戦争は、神の創造のわざとたまものの破壊です

「神はつくられたすべてのものをよいと思われた」と聖書は語ります(創世記 1.31参照)。神がつくられた世界は、秩序と調和に満ちた、すばらしい世界でした。 わたしたちのいのちは、神からのかけがえのないたまものです。戦争は、そのような世界と尊いいのちを破壊します。

(2)戦争は、人間のいのちの尊さを否定する行為です

神は、人間をご自分の似姿としておつくりになりました。ここに人間のいのちの尊さの根源があります。いのちを破壊する戦争は、その尊さを否定するものです。

(3)戦争は、家族の悲しみをつくりだします

神の祝福のもとにある家族の営みは、厳しい地上を旅するすべての人間の憩い、支え、喜び、希望、そして生きがいです。妻を夫から、子を親から引き離し、家族を引き裂いてしまう戦争は、家族に大きな悲しみをもたらします。 (4)戦争は十字架の愛を踏みにじるものです

神は、罪ある人間を救うため、御ひとり子をこの世に遣わし、十字架にお渡しになりました。神はそれほど人間を愛しておられます。人間のいのちを軽んじ踏みにじる戦争は、また神の愛を踏みにじるものです。

(5)戦争は、愛のおきてに背く行為です

イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と弟子たちに愛のおきてを残されました。この愛のおきての実践が、真の平和を築きます。人と人とのかかわりに愛が失われるとき、それは力の関係に変わり、強者が弱者を支配するという形に発展し、紛争や戦争への道を開きます。

(6)戦争に積極的に加担する者は、永遠のいのちへの道を閉ざします

人のいのちは永遠のいのちに向けられたものです。永遠のいのちへの道は、愛のおきての実践によって開かれます。「わたしたちは、自分が死からいのちへと移った ことを知っています。兄弟を愛しているからです」(1ヨハネ3,14)。戦争をあおったり、それに積極的に加担したりする者は、永遠のいのちへの道を自ら閉ざすことになります。

 

  1. 明日を生きるために過去を振り返る

今、ここで過去を振り返り、どこに過ちがあったかを確認したいと思います。それは、過去の過ちを認め、そのゆるしを願い、その償いの責任があることを自覚し、さらにまた今の社会で戦争に向かう流れがあれば、それを機敏に見抜き、それに逆らって「ノー」と言える勇気を培うためであります。

(1) 日本人としての責任

1986年にアジア司教協議会連盟総会が東京で開催された際、当時の日本カトリック司教協議会会長の白柳誠一大司教(現枢機卿)は、日本の戦争賛任について次のような告白をいたしました。

「わたしたち日本の司教は、日本人としても、日本の教会の一員としても、日本が第2次世界大戦中にもたらした悲劇について、神とアジア・太平洋地域の兄弟たちにゆるしを願うものであります。わたしたちは、この戦争にかかわったものとして、アジア・太平洋地域の2千万を超える人々の死に責任をもっています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に今も痛々しい傷を残していることについて深く反省します」。

確かに日本軍は、朝鮮半島で、中国で、フィリピンで、その他のさまざまな地域で人々の生活を踏みにじり、長い歳月をかけてつくりあげ、伝えられてきたすばらしい伝統、文化を破壊してしまいました。人々の人間としての尊厳を無視し、その残虐な破壊行為によって、武器を持たない、女性や子どもを含めた、無数の民間人を殺害したのです。

わたしたちのごく身近なところには、強制的に朝鮮半島から連行されてきた在日韓国・朝鮮人や元「従軍慰安婦」たちがいます。今もなお怒りと悲しみの叫びをあげているこのかたがたは、第2次世界大戦において日本が加害者であったことをあかす生き証人であります。

この事実を率直に認めて謝罪し、今なおアジアの人々に負わされている傷を渡っていく責任があります。そしてその責任は新しい世代の日本人にも引き継がれていかなければならないものであることも、ここで新たに強調したいと思います。

また一方で、この大戦はわたしたち日本人にとっても不幸な悲しい出来事でした。実に多くの同胞が尊いいのちを戦場で散らしました。また、終戦間際、連合軍の上陸の場となった沖縄諸島は焦土と化しました。本土では度重なる空襲で家屋が焼失し、多くの人々が路頭に迷いました。さらにまた広島、長崎に原子爆弾が投下され、何十万という人々のいのちが一瞬のうちに奪われました。今なお多くの人々がその後遺症に苦しんでいます。

このようにわたしたちの同胞が、この大戦によって言葉に尽くせない苦しみを体験したことも忘れてはならないことであります。そうした人々の犠牲を無にしないためにも、わたしたちは二度と戦争を繰り返さないよう、働きかけていかなければなりません。とくにまた、核兵器の破壊的な力を体験したわたしたちには、その最重な証人として、核兵器の廃絶を訴え続けていかなければならない責任があります。

(2)教会共同体としての責任

先の大司教の告白のなかに、「日本の教会の一員としても」という表現があります。これはわたしたちに、大戦中の日本の教会共同体のあり方を振り返るよう、呼びかけるものでもあります。

戦前・戦中、日本のカトリック教会は、周りから外国の宗教として冷たい目で見られ、弾圧と迫害を受け、軍部から戦争に協力するよう圧力をかけられており、自由に教会活動を展開することができませんでした。戦争終結は、日本の教会にとって解放の時であったことも事実です。今あらためて、ここに、当時日本の教会を支えるために並々ならぬ辛苦を耐えられた宣教師をはじめ、多くのかたがたに敬意を表したいと思います。

しかしまた一方、今のわたしたちは、当時の民族主義の流れのなかで日本が国をあげてアジア・太平洋地域に兵を進めていこうとするとき、日本のカトリック教会が、そこに隠されていた非人間的、非福音的な流れに気がつかず、勢いいのちを守るために神のみ心にそって果たさなければならない預言者的な役割についての適切な認識に欠けていたことも、認めなければなりません。

今これらのことを率直に認め、神と、戦争によって苦しみを受けた多くの人々に対してゆるしを願い、罪の償いの賛任を果たすよう努め、祈りたいと思います。またわたしたちの回心のあかしとして、次項で具体的に指摘するようなことがらを、それぞれの立場で、それぞれのできる範囲で、誠心誠意行っていきたいと思います。

 

  1. 平和実現に向かって

次に、わたしたちがキリスト者として、信頼される「平和の働き人」となるための具体的な道を指摘したいと思います。

(1) キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに

わたしたちが目指す平和は、キリストの十字架と復活によって実現した、神と人類との和解に土台を置いた平和です。信仰者としてのわたしたちの平和への歩みの中心には、キリストがおいでにならなければなりません。それは、キリストとの一致、キリストの支えと導きによって初めて可能となることです。キリストは最後の晩さんの席で、「皆が一つになるように」という願いを込めて、感謝の祭儀を制定してくださいました。この感謝の祭儀をとおして、キリストは平和実現を目指して歩もうとするわたしたちを照らし、そのための力を与えてくださるのです。信仰を新たにして、キリストとの交わりを深めるための努力をしていきたいと思います。

またわたしたちは、日本の教会の福音宣教推進の歩みに合わせて、「わたしたちの平和」であるキリストの福音を新たな自覚をもって生き、広めて、世界平和の実現のために貢献したいと思います。それは、キリストこそ、罪によって互いに憎み分裂するわたしたち人間の心に愛の火をともし、心の武装解除をなさしめ、傷ついた心をいやし、人類一致と恒久平和のための内的基礎を築いてくださるかただからです。

(2)愛と真理と正義と自由による世界の建設を

第2次世界大戦終結から50年たった今、国の内も外も、平和からはほど遠い状況にあります。国の内では、家庭崩壊やいじめの問題などに指摘できるように、人と人との愛のつながりが揺さぶられています。国の外では、植民地主義や社会主義体制の後遺症が深刻に残り、富の不公平な分配による南北問題は先鋭化し、民族主義的な紛争が各地に勃発し、経済摩擦や麻薬売買等による国際間の緊張はおさまる気配がありません。こうした事実は、平和の確立がどんなに難しいことであるかを示すものです。しかし、それがどんなに難しいことであっても、その実現のための努力を惜しんではならないと思います。わたしたちは、大戦後50年を機に、信仰者として、この困難な課題に挑戦したいと思います。

そこで今、世界の平和は、愛と真理と正義と自由の調和の上に築かれるものであることを強調したいと思います。現代の教会は、種々の「社会教説」(注1)をもって、カトリック信者だけでなく、すべての善意の人々にあてて、福音の光に基づいた愛と真理と正義と自由の調和のとれた平和実現を呼びかけてきました。わたしたちは、これからもこの教えに耳を傾けながら、これを伝え、広め、すべての善意ある人々と手を取り合って世界平和の実現に向かって歩んでいきたいと思います。

(3)第2次世界大戦とそれに向かう流れについての正しい認識と検証を

教皇ヨハネ・パウロ二世は、21世紀を迎えるにあたって、次のような言葉で、教会の過去の歩みを反省するよう呼びかけています。

「教会は、この千年の間に教会の中で起きたことをはっきりと意識して、この節目を通過しなければなりません(注2)。教会は、過去の誤りと不信仰、一貫性のなさ、行動の緩慢さなどのことを悔い改めて自らを清めるよう、その子らに勧めることなくしては、新しい千年の敷居をまたぐことはできないのです。過去の弱さを認めることは、わたしたちの信仰を強める誠実で勇気ある行為です。それは、現代の誘惑と挑戦に立ち向かうわたしたちに警告を与え、またわたしたちの取り組みを準備するものです」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『紀元2000年の到来』33)。

教皇のこの呼びかけにこたえて、わたしたちも、この戦後50年を節目として、人間として、信仰者として、戦争へ向かった過去の歴史についての検証を真剣に行い、真実の認識を深め、悔い改めによる清めの恵みを願いながら、新たな決意のもとに世界平和の実現に挑戦したいと思います。

(4)平和な世界の実現のために

平和は、人と人とが触れ合い、助け合い、理解し合うことによって、深められていくものです。それぞれの立場で、それぞれの可能な分野で、国際交流をはかり、平和な世界の実現のために貢献していきたいと思います。そのための参考として、以下にいくつかの具体的な活動を提示したいと思います。

  • 温かい共感と人道的な配慮をもって、第2次世界大戦によって踏みにじられた人々の人権の回復のために努力する。
  • 国境を超えた人と人とのネットワークの輪を拡大する。

③アジア・太平洋地域の人々の自立と、その人々との共生を目的とした援助・協力活動を推進する。

④神からいただいたいのち(受胎から死にいたるまでの)を学ぶ運動を促進し、いのちをはぐくむ社会および地球環境の保護に努める。

⑤武器輸出の禁止、核廃絶、軍事費の削減等の実現のための活動を展開する。

⑥被差別部落や在日韓国・朝鮮人、外国人移住労働者、国内外の少数民族、女性、障害者等の人権を尊重し、すべての差別解消のための活動を展開する。

⑦家庭、教会、学校における、青少年を対象とした平和教育を促進する。

 

終わりに

第2次世界大戦後、50年の歳月がたちました。その間、日本は多くの人々の努力によって、経済的には豊かな社会を築き上げることができました。しかし、残念なことに、キリストの光に照らされると、その発展の裏に、人間のいのちの尊厳を危うくし、真の平和を脅かす実にさまざまな非福音的なものが潜んでいることが見えてきます。わたしたちカトリック信者には、それを識別し、預言者的な役割を果たしていく重い責任があります。

わたしたち司教は、この戦後50年の節目にあたって、過去の歴史を教訓として受け止め、そこから平和を築いていくための光をくみ取ろうと努めました。わたしたちは、日本の教会のすべてのかたがたがわたしたちと思いを一つにして、信仰の原点に立ち戻り、すべての善意ある人々と手をたずさえて、この複雑な社会をしっかりと見つめながら、平和な世界の実現に向かって、カトリック信者としての責任を果たしてくださることを心から願っています。

1995年2月25日

日本カトリック司教団

 

注(1) 教皇ヨハネ二十三世回勅『パーチェム・イン・テリス―地上の平和―』(1963年)

第2バチカン公会議『現代世界憲章』(1965年) 日本カトリック司教団司牧教書『平和への望み―日本のカトリック教会の福音的使命―』 (1983年)

教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『真の開発とは―人間不在の開発から人間尊重の発展へ―』 (1987年)

(2) 教皇はここで11世紀以降の歴史にふれている。