政府見解を糺す
2002年8月1日

福田官房長官は7月24日の衆院有事法制特別委員会の質疑で武力攻撃事態での国民の権利制限についての政府見解を示した。
その中で「思想、良心、信仰の自由が制約を受けることがあり得る」として、思想や信仰を理由に自衛隊への協力を拒否することが認められないケースがあるとの考えを明らかにした。
見解は更に、武力攻撃事態に対処するために国民の自由と権利に制限を加えることについて「国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉のため、合理的な範囲と判断される限りにおいては、その制限は(個人の尊重を定めた)憲法13条に違反するものではない。」と指摘。思想、信仰の自由については「内心の自由という場面にとどまる限り絶対的な保証である」とする一方、「外部的な行為がなされた場合には、それらの行為もそれ自体として自由であるものの、公共の福祉による制約を受けることはあり得る。」と明言している。
さて、自衛隊は本質的に違憲の存在であるが、ここではふれず、別の機会に述べることとし、以下、政府見解について反対の論点を記すことにする。

1. 思想、良心、信仰の自由について

政府見解では、第19条「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない。」と第20条「信教の自由、国の宗教活動の禁止」は、公共の福祉による制約の対象となっている。
第19条の「思想及び良心」とは、内心におけるものの見方とか考え方のことをいい、ここでは内心の自由が保障されている。
明治憲法には、思想・良心の自由の規定はなく明治憲法下では、治安警察法、治安維持法を含むさまざまな治安立法などで社会主義思想はもちろんのこと、自由主義思想まで弾圧された。しかし、日本国憲法は、どんな思想・世界観をもっていても自由であることを明確化し、戦前のような治安立法は許されないことになった。公共の福祉による制約もない。
戦前の明治憲法第28条では「日本国民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す。」と規定していた。信教の自由は一応あったが、条件つきだった。
戦後の日本国憲法第20条では、このような苦い経験をふまえ、明治憲法にみられるような条件をなくした。信教の自由について何らの制限もない。第20条では、信仰を外部に表現し宣伝し教育する自由、宗教上の信仰の目的で集会し結社をつくる自由が保障され、宗教的行為の自由も保障されている。

2.公共の福祉について

日本国憲法は第12条で、国民は憲法が保障する自由および権利を「公共の福祉のために」利用する責任を負うといい、また第13条で、国民の権利については「公共の福祉に反しない限り」、「国政の上で最大の尊重を必要とする。」と定めている。ここでいう「公共の福祉」の概念は、人権と人権の調整原理を表している。国家は基本的人権を制約することはできない。国家こそ人権に奉仕すべき存在なのだから、国家ができることは、人権と人権の矛盾や衝突を公平に調整することだけだ。
これに対し、第13条や第12条の「公共の福祉」の文言を根拠にして、第3章(国民の権利及び義務)にかかげる権利や自由を一般的に制限し得ると解する見解がある。しかし、この考え方は、公共の福祉の名のもとに政策上の便宜によって人権を制約するおそれがあり、人権よりも、全体の利益こそ常に優先するという考え方に結びつき易い危険があり、個人の尊重をうたう憲法の趣旨に反するものである。公共の福祉は、基本的人権を公平にかつ実質的に保障することをねらっていると考えるべきであって、全体主義的な意味に解してはならない。
過去の天皇制国家主義による苦難の歴史を思い、深く学ぶ必要があるのではないだろうか。

日本カトリック正義と平和協議会事務局長
木邨健三