東京電力福島第一原発の事故から8年がたって(2019.3.11)
東京電力福島第一原発の事故が発生してから8年がたちました。10年に近い年月が過ぎ、この出来事が「歴史」になりつつあるように思います。
同時に、原発事故の結果が人々を痛めつける状況は、ますます深刻に進行しているようです。人間の内面の変化、その傷と癒やしは、ゆっくりとしか進まないようです。「自分の生きる柱が奪われた」「手足をもがれたようだ」と語る被災者からは「(原発事故の収束は)何も終わっていないし、何も始まっていない」「奪われた時間、止まったまま前に進まない時間を返してくれ」との声も聞こえてきます。
深まる原発事故の痛手
東京電力福島第一原発では、2号機で溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出し、廃炉までどれほどの時間がかかるかについて、いまだ目処もつかず、この事故現場は「寝ているライオン」のように、人々を絶えずリスクで脅かし続けるようです。
避難生活を余儀なくさせられている人はいまだ4万人を超えますが、避難指示区域の指示解除、区域外避難者(いわゆる自主避難者)への住宅無償供与、賠償や和解交渉の打ち切りが進み、当事者の人々には困窮が拡がっています。子どもの健康を守りたい一心で避難した先で、大きな経済的負担を抱えながら、子どもがいじめを受けたり、地域とのつながりも築けず、「帰りたい、帰れない」のはざまで精神を病み、自死を考えるほどの窮状にある母子世帯避難者もいます。
「除染」には、2016年末までで作業員は延べ3000万人、2兆円6250億円以上の費用が投入されましたが、「手抜き除染」があったこと、中間貯蔵施設に運び込まれるはずの2200万トンの汚染土が、フレコンバッグに詰められたまま市街地にまで放置されており、しかも8000bq/kg以下であれば、その土を土木工事に「再利用」する方針が浮上したとも報道されています。
「人間の尊厳が奪われた」
放射線の危険についての認識の相違による、人々の間の分断と亀裂も深刻です。被災地では、放射線被曝のリスクについて口にすることはタブーであるようです。そんな言葉を口にすれば、リスクを過剰に懸念して心苛まれる人が増えるし、風評被害を助長し、復興を邪魔することになると言われます。原発事故被災地で暮らす人々は、こうして被曝の危険に向き合って生きることに疲れています。放射能汚染を気にする親は、まるで「隠れキリシタン」のように、息を潜め、自分の信念を隠して生きることを余儀なくされていると言われます。
こうした分断の原因は、政府の帰還政策にあるでしょう。原発事故被災地が被曝地であると認知されることを忌避する在留者の意識をテコにして、政府は避難する人々の損害賠償・補償の打ち切り、原発事業の継続、帰還推進、復興を進めます。根本問題は、事故の責任者(政府)が、科学的に正確で人々も納得できる基準を明示せずに、不安の残る基準(20mSv/y)で、人々に帰還政策を押しつけていることにありますが、その矛盾は、被害の差や保障の違いによる被災者同士の感情のもつれに転嫁されます。
政府の本意は、除染により避難指示解除、賠償・住宅などの支援は打ち切られたし、「避難」は終わった。「健康被害と原発事故は因果関係なし」「復興は進んでいる」「原発事故はたいした事故ではなかった」、そしてオリンピック開催に向けて「原発事故は終わった」さらに「何もなかった」としたいことにあるのでしょう。
しかし、低線量被曝被害の深刻さを危惧する人々や自主避難者などの心の葛藤を無視し、この人々を見捨てることになってはならないと思います。「帰らない人々はわがままな人たち」だとして、避難者を追い詰め、矛盾を押しつけてはならないと思います。被曝リスクが相対的に高い若年層に対しては、特別慎重な配慮と保養などのケアがなされるべきです。被曝リスクは被災者の自己責任ではなく、原発を推進した国と電力会社に責任があるのですから、政府は憲法に記される平和的生存権に基づき、人々が被曝を避ける権利を保障せねばなりません。 私たちの原発被災者への支援のあり方も、そこから考えたいと思います。
ところで、この間、この国では、国家の信用と民主主義の基盤が崩される現実が露呈しています。報告されるべき公文書やデータが、隠蔽・改ざん・意図的削除され、それについての説明責任放棄・責任所在の不明確さ・口裏合わせなどが次々と報道されました。沖縄では、県知事選挙と県民投票で、基地反対の県民の意思がはっきりしたにもかかわらず、政府は力づくで軍事基地工事を続けます。また社会保障費は削りながら、軍事費は米国からの武器兵器購入のために毎年最高額を更新します。こうして、日本のカトリック教会もこれまで声を大にして守ってきた日本社会の平和と民主主義は、深刻な危機に陥っているといえるでしょう。
「国策」として推進されてきた原発は、安全性、廃棄物処理、人々の健康、平和、コスト、倫理などの面から、エネルギー源としてはもはや破綻しているのは明らかです。それにもかかわらず、原発再稼働が画策され続けることの理由は、政府に核の軍事利用への目論見にあるからだとも疑われています。実際、核兵器と核の「平和利用」は表裏一体であり、技術的には線引きできないと言われます。原発が、情報隠蔽・買収・分断など、およそ民主主義とは相いれない手法で推進され、事故が起これば、声の小さい弱者を切り捨て、被害者の苦しみが無視されるのは、それが核兵器に象徴される経済力や軍事力という「力の政治」と癒着しているがゆえでしょう。
分裂のエネルギーから「聖霊」のエネルギーへ
教皇フランシスコは、今年の四旬節メッセージ「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」において、破壊をもたらす罪の力について次のように述べます。
「罪はあらゆる悪の根源であり、原初に現れたときから、神、他者、被造物とわたしたちとの交わり、何よりもまず人間のからだを通してのつながりであるその交わりを阻害してきたことはいうまでもありません。神との交わりが絶たれれば、園が荒れ野と化したように(創世記3・17-18参照)、人間と、そこで生きるよう人々が招かれている環境との間の調和的な関係も傷つけられます。罪は、人間に自分のことを被造物の神、絶対的な君主であるという考えを抱かせ、たとえ他者や被造物を傷つけても、創造主のみ旨のためではなく自分の利益のために被造物を利用するよう人間を仕向けます」。
「核エネルギー」とは「分裂」のエネルギーです。原子を結合させていたエネルギーを突如反転させることで、すべてを壊滅する力を得るものです。私たちは福島第一原発事故により「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」(創世記3・5)ことの結果である、巨大な分裂のすきまに浮かび上がった悪魔の顔を見たとも言えるかもしれません。
今年来日すると言われる教皇フランシスコは、核兵器廃止に前向きです。核兵器が「力の象徴ではなく、恥の象徴だと認識」すること(ICAN ベアトリス・フィンさん)、そして「核兵器は、必要悪ではなく、絶対悪」である(サーロー節子さん)との言葉は、原発にも言わねばならぬでしょう。
フランシスコ教皇は、同四旬節メッセージにおいて「ですから被造物は、『新しく創造された者』となった神の子たちが、今まさに現れることを切望しています。『キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた』(二コリント5・17)。実に、神の子たちが現れれば、被造物も新しい天と新しい地に向けて自らを開け放ち(黙示録21・1参照)、『過越を祝える』ようになります。復活祭への歩みは、過越の神秘の恵みの豊かさを余すことなく享受するために、悔い改め、回心、ゆるしを通してキリスト者としての顔と心を取り戻すようわたしたちを招いています」と述べます。
教皇のこうした展望を私たちも共有しましょう。そして私たちも、いのちを生み出す生態系を破壊する恐怖・威嚇・虚構の力である核エネルギーから「聖霊」のいのちのエネルギーへと転換すること、悔い改めとゆるしがもつ、その癒しの力をいただけるように原発事故8周年の今日、ご一緒に祈りましょう。
日本カトリック正義と平和協議会会長
勝谷太治司教